昭和42年12月03日 夜の御理解
だんだんこう信心さして頂いて、いろいろに精進した、お参りにも一生懸命になる。御用と言えば率先して御用もさしてもらう。本気で改まることにも磨くことにも、いわゆるここで言う、限りなく美しゅうならせて頂こうという、そこに照準を置いて信心さして頂いておる。ところが、ここだけは改まれんでおる。あの人がここをひとつ改まれたら素晴らしいことであろうと、と言う様なところへお互いが進んでまいります。そこまではいかにゃいけませんね。
例えばなら原さんなら原さんが、17年間夫婦で一生懸命お参りになった。17年間お参りさして頂いているうちに信心の事が分ってきて、もう御用といやあ、率先して有り難くさして頂けるようにもなられたね。もう本当に信者としての、誰が見ても立派な、ならここの合楽の信者として認められる。けれどもここいっちょ、あの人達が改まりなさりゃあ、素晴らしいおかげを受けられるだろうと、いうところまできておるという人は、椛目にはいくらもあるですね。
今日は何かの機会か先程、高橋さん秋永先生、4、5人で何かのことからでしたが、高橋さんのことをまあ大変、今まで長い付き合いだったけど言ったことなかったけれども、言うというて秋永先生が申しておりましたことがですね、私それを聞かして頂きまして、ほんに高橋さんがこれをいっちょ、本当改まっておかげ頂いたら素晴らしいことになるだろうと私は思いましたですね。なら横に富永さんがおられたから私は申しました。富永さんにひとつふたつ改まれって言ったってですね。
そういう素晴らしいおかげになると思えないですね。あまりにも沢山あるからですね。つけねばならない事にですよね。ですからお互い信心さして頂いてからですね、本当にあれも改まった、これもこっから変わらせて頂いたとね。信心がどういうもんであるかと言う事が分かって、本当にこう言う事にもこう言う事にも、まあ例えて言うなら、そのお参りでも御用にでもね、言わばお広前中心にした信心が段々出来る様になった。言わば合楽で言うならば合楽のもう良か信者として、誰でも認められる様になった。
そこまではいかにゃ、そこまでいけれるんですよね大概。本気になりゃあ。なら椛目ではそういう人は多いと思うんですよね。けれどもいかにその、富永さんがそら副委員長だと言うてもですね、なら富永さんが、あんたここいっちょ改まっていかにゃおかげ頂けんと言えるものはないです。皆さんの中にでも、まあだそこまでいっていない人も沢山おろうと思う。けれどもんなら高橋さんじゃないけれども、そこまでいっておる人は、又椛目ではここで10年も、又は十何年も信心をしておる人ならばです。
この人のここがいっちょ改まると素晴らしかろばっていうとこがあるですね。もう本当に高橋さんの場合なんか、あんたが例えばお広前でね、親先生を中心にしてから覚えておる時のあなたっていうものは素晴らしい。
(録音不良)
お参りでお参りで来い、御用で来い。信心で来い分かっておると言う事において来いというものを何でもしないいうほどに信心は素直だけれども、あんたがこれをいっちょ改めると、ね。それはあんたの心が細いからだと。あんたがいつも額にしわを寄せ、家で縦にしわを寄せると、癖があるね。あんた方のお母さんが言わっしゃった。定利があの椛目の合楽のお広前に行っておる時のごたるとならとても素晴らしい、定利らしいけれども、家ではこんなっていってお母さんが言われるのも、そういうところにある。
家内のためのよいお父さんであり、主人のため、親のためには良い親でありね、店の使用人のためには良い亭主であり主人であると言う様なおかげを頂かにゃいけないね。そこが頂けたら、高橋さん素晴らしかろうと言うて、まあ少し言葉非常に秋永先生が言うておりましたがですね、ほんなこて高橋さんそうばいって私申しました。うん。だからこれは、なかなか言おうと言えるこっちゃないけれどもです。
ここはいっちょ、あぁたが頂かにゃん、まあ菊栄会で言われるひとつのまあエリート精神とでも言うか、そういうふうなものをもってるね。だからそこんところが私は改められていかなければならないと。例えて言うなら佐田さんが参っておられる、佐田さんなんかは良い主人であり良い子供であり、ね、良い子供であり、まあ言うならば、店で言うならば、良い主人であると、あるだろうと私は思うですね。
お話の模様を聞いても、あのご性格から言うても。けれども、信心の方はまあだまあだまだちゅうところであるですね。そのそこんところを高橋さんだん、もう常でいってるですね。だからそのどちらが先と言う事でもない。なら佐田さんあたりが、高橋さんあたりのような信心に進んでいかれたら、この人はもういよいよ鬼に金棒であろうと思うですね、佐田さんなんかは。
ならなら高橋さんに佐田さんが実際に、実生活に現しておられる、その素晴らしさというものを高橋さん達が身に付けていったら、もうそれこそあんた、いよいよ本当に徳を受けるばいって私、と言うて話したことでしたね。と言うてんならです、ひとつふたつ改まったからといってから、一生懸命なったからと言うてです、まあだ何もかにも足ろとらんという人も、まあ沢山おるわけです、富永さん私毎日申しますように。ならあんたにここばいっちょ改まるとと言うわけにはいかん。
ならあまりにもまだあなたの場合は多いっちゅうわけですね。信心そりゃいかにああして今は表桜ここでのまあ御用ができておりますけれども。それができておるから信心ができておると言う事じゃないというですからね。分っておると言う事と信心ができておると言う事は違うのです。お互いがひとつ本気で信心を頂かせてもろうてですね、例えもう本当にそういう意味合いでですね、惜しい人が沢山あります椛目には。
だから何かの機会にですね、そこが突破できるとかね、そこが脱皮できるとか、したら本当に素晴らしい徳を受ける人が沢山おるだろうと私は思いますね。今日は秋永先生が高橋さんにね、まあいやにくい事だけれども、まあ言うと言うてから、言うておりましたがです、ならこれは秋永先生は、また他の第三者から見たらね、秋永先生ここをいっちょ改まったらこの人達もやっぱ、そういう感じが致しますですね、そういうものがやっぱあるね。だから皆さんが信心がどの程度のとこにあるだろうかとね。
まあだそれこそ富永さんじゃないけれども、もうあそこも改まらなん、ここも改まらなん、いやここもまだ一生懸命改めないかん。ここもまあだ足りないと言う様な、それではなくて、本当にここでまあ表立って一人前のご信者と言われるような人達は大体それができておるんだけれども、ここをひとつ改まる、ここをいっちょ、方向、向きを変えると素晴らしかろうと言った様な人達があります惜しい。
今日はある方がある問題を、まあ本当に信心で、まあ今までやっとかっとおかげ頂いておる、非常に苦しいとこを通っておる。先生もう本当に私がどこを改まらせて頂いたら、いや、どう言う事を心の中に心情として、参りましたらおかげが受けられるだろうかというお伺いがあった。すと神様から、私そう言う事に対しては自分で、練りなさいと言って言うんです、誰にでもね。
どこを改まったらとかどこをどう守ったならいいでしょうか、なんて言う人がありますけれども、そう言う事は自分でお話を頂いて、はあ自分のここは改まらにゃと自分で分からにゃいかんと私は思いますからね。それは自分で練りなさいよ、そげなこと言わんでどうかそこんところを教えて下さいちゅってから、まあその食い下がって来られるわけですね、それで私、まああんまり言われるから神様に御神意を伺いました。そしたらこういうことを頂ましたがですね、うん。
「自分の顔を飾るな」と仰った。この方は自分の顔を飾るような人でもないと思うんですけれども、神様の目から、厳密に見たらあるんですね。まあそれを極端に言うならです、私はこげんもしましたあげんもしました、私はこの人のためにこげんもしてあげましたと、そうして自分の顔を飾りよるっちゅう訳です。信心とは自分の、言うなら心がです、神様へ向うておる姿というものは、いわゆる神様がご承知の世界に生き抜くことなんだから、誰に見せるわけじゃないのである。
誰に聞かせるわけじゃないのであるね。私はこげんしよりますばいっと言うて、見せることも何もいらんね。ですから、けれどもこれは大変難しいことだと思うんですね。非常に難しいことですねって、自分も言うておられましたがですね、非常に難しいことなんですね。けども厳密に厳密に言うてですね、神様だけがご承知の世界に黙々として、信心の稽古をさせて頂く。
その信心の稽古がです、例えて言うなら高橋さんなら高橋さんのような積極的な信心の方へ、もうそれこそ神様事なら前には進んでも後ろに退かんという生き方ですね、高橋さんの生き方は。皆さんご承知の通りですね。だからそればってん、高橋さんがごたるとがもし、椛目に50人もおったら、とてもそらどげなことになるやら分からんて私申しました、またほんなこっですよ。高橋さんのような信者がなら50人もおったらそれこそ、もう日本一どころかほんなこ世界一になりますでしょうね。
あれだけ神様一途になる人達が50も揃うておったらね。またあれだけのことができる人達が揃うたらね。そういう素晴らしい人でもですね、ここをいっちょ改まらねばというところを、私は改まらして頂かなければですね、もう一つ言わば変わった信心の世界とでも言うかね、なら徳を受けていく世界とでもいうかね。菊栄会の人達のことを皆が言われる。あんまり言わばこの出る釘は打たれる、あんまり素晴らしい、素晴らしいと皆が言う、こう褒めたてられるもんですから、その反面に非常に風当たりがひどい。
ただこればっかりは、しかし悪う言うもんが居らんちゅうのは正義さんだけです、久富正義さん。もうこの人だけは誰ん悪言う手がない。もうどれだけ菊栄会の皆さんが悪い連中が集まって、悪言うとっても、誰がどうのかれがどうのと言うおってもです、しかし正義さんだけは言うとこがなかねちゅって皆が言ううん。と言うても神様の目からご覧になりゃあね、まあだこの、まだまだでございましょうけれどもですね。そういう例えばここにある、様々な良い意味合いにおいての手本がございますからね。
そこを頂いていかせて頂く、精進させてもらう、と同時に私は信心と、そうした改まらなければならない、もうあそこもここもでなくてからですね、もうここをあなたが改まったらというようなものをですね、自分の心の中に頂いて、そこを改まっていくおかげを頂いたら本当に素晴らしかろうというおかげの受けられる人が椛目にいくらもあるね。だから、はあ自分も心に思い当たる人があるなら、本気でそこをいっちょ改まっていかなきゃならないね。
やはり自分はまだまだ、ひとつふたつのことじゃなかと思う人は、それになったらですね、改まれることですよ、実を言うたらね。例えばその改まる、けれどもこれだけは改まられないというのが、ひとつ大きなのが残ってるわけですね。だからそれをです、私共が脱皮した時に、私共が本当の信心さして頂いとる者の値打ちというかね、値打ちが発揮される時であろう、神様もまたおかげを下さる時であろうと思うね。
どうぞ。